今年の目標、そして自意識の重さに関して云々

と同時に、ダイアリーのタイトルも変えてみた。2.1というのは何となくAndroid OSの最新バージョン(nexus oneに入ってるヤツ)に揃えてみた*1。意味はない。


さて、Twitterをのんべんだらりとやったり研修中の給料の少なさに絶望してみたりしながらいろいろ考えた結果、今年の目標は、「普通に暮らす」にしてみた。


考えてみるとここまでの自分って、基礎もろくすっぽ出来てないクセに「自分はもっと特別な人間になりたい」とか「人とは違う自分でいたい」という、幻想にも似た痛い希望を抱いていたような気がする。だが実際自分はそれほど特別なのだろうか、あるいは特別な人間になれるような要素はあるのだろうかと考えると、必ずしもそういうことはなく、天才でも変わり者でもセンスオブワンダーを持った人間でもない。
そして、とうの昔にそんなことは分かっていたのに、でもそれを信じ続けたいが為に、自分を無用なストレスに晒していたのではないか。そう思うことが最近多くなった。
無用なストレスというの個人的には「何をやってもうまくいかない感じ」に近いものだった。自分は自分以上の何かに、もしくは自分を突き抜けたところにある別の自分になりたいと思っていて、それがうまくいかないから、実際にはそれなりの生活が送れているにもかかわらず「なにもかもがうまくいかない」と思い込んでいただけではないか。もちろん本気で自分がダメ人間であるという可能性は無いわけではないが、原因の多くは自分の超えるべきハードルの高さを非現実的なレベルに設定してしまっていたからではないか、と考えるようにもなった。


もっと端的に言うと、自分以外の誰かに、人とは違う特別な自分になりたい。そう思うことが、逆に足かせになってきたような気がするのだ。
なんというか、重いのだ。そういう自意識って。自意識過剰ってのは他人から見てもウザいが、自分にとっても決してありがたくはないのだ。マイナス方向に自意識過剰で、今の自分を過剰に否定してまで自分を取り繕うとする態度には無理がある。逆にプラス方向に自意識過剰であっても重さは変わらない。自分中心に世界が回ってるというとものすごく脳天気に聞こえるが、個人的にはイコール自分が中心となって世界を「回さなければならない」ようにも思える。世界を回す前に、自分が重すぎるので世界にも自分にもつぶされそうになる。


年齢的にも大台に乗ったし、自分の身体にもいろいろな変化があった。そしてそういったものを体験して、今の自分は「自分のあり方が分からない」状態に陥ってると思う。三十代に突入した(言っちゃった!)自分は、重すぎる自意識を抱えて、道しるべのない雪原にぽつねんと立っているような状態になってると思う。


ではここで何をすべきか? と考えたところで思い浮かんだのが、「普通に暮らす」ということだった。普通の暮らしというのは、適度に力が抜けている。もしくは力が入るところには力が入り、力が抜けているところは徹底的に抜けている。まんべんなく力の入った「重すぎる自意識」とは無縁のもののような気がする。

でも普通の暮らしというのが何かというのもひとつの問題である。そこら辺は自分と向き合うしかないのかなぁと思ったりする。「自分はかくありたい、いや、かくあるべし」という考え方を今までしてきたように思うが、そういう考え方は自分と向き合っているようでいて向き合っていない、逆に自分を取り繕うようなモノではなかったかと思う。


普通に暮らすこと。そして普通に暮らすために自分と向き合うこと。ひとまずそれを2010年の自分の目標にしたいと思う。




…結局まとまらない文章だったなぁ。

*1:本当は「すべての寂しい夜のために」という部分を「すべての寂しい幼年期の終りの為に」にしようと15秒くらい思ったが、あまりにも狙いすぎてるような気がする(そうでなくても「すべての寂しい夜のために」というのが既にとある映画からの借用なのに、さらにおこがましくも有名なSF小説から借用するというのがアレ)のでやめた