3月11日のことと、それからあとの日々について(1)〜今日が喉元を通り過ぎるまで〜

まず、この災害に巻き込まれた全ての人に、全ての命に、全ての思いに、全ての記憶に、ささやかな祈りを捧げたいと思います。

 

あの日のことと、それ以降のことについて、そろそろ書いておかなくてはならないかもしれません。
このことはあまりうまく書けないかもしれない、というよりは、今のうちはできるだけ素直な書き方でしか書けないと思います。なにより、さっさと書いていかないと曖昧なまま心のどこかに沈着したままになってしまうような気がするので、あまり体裁にこだわらずに書いていきたいと思います。乱文ご容赦を。


3月11日のあの瞬間、自分は寝ていました。ちょうど寝込みを襲われたようなかっこうでした。今までに経験したことのない揺れで、思いの外長く続く揺れの中で、この揺れがもっと強くなったときにどんな状態になってしまうのだろうと、抑えることのできない恐怖がこみ上げてくるのを感じました。
やがて徐々に揺れは収まりましたが、自分でも何が起こったのか飲み込めない状態のまま、次の余震に襲われました。「今、とんでもないことが起こっている」という感覚が否応なく体を震撼させました。
震源地からは遠い札幌だっただけに幸いにして実際の被害は皆無に等しかったものの、やはり動揺は止みません。ある程度の冷静さを取りもどしたところで、テレビ(今の環境だとすぐにテレビが観られないもので、いつもはあまり観てません)で状況を把握しようとしました。
大津波警報
そしてリアルタイムでははっきりとは覚えていませんが、地震がかなり広範囲に影響したことを示す画面と、非常に激しい地震であったことを示す数字たち。
しばらくはテレビに釘付けでした。大津波警報なんて多分見たことがなかったし、そんな状況で襲ってくる津波がどんなものなのかあまり想像もできず、何が起こってしまうのかをただただ注視していました。
思えば、誤解を恐れずに言うと、まだまだこの時点では「ただのギャラリー」のような心持ちだったのかもしれません。恐怖も喉元を過ぎて、それなりに落ち着いた状態でした。(喉元を通り過ぎた後の恐怖がどうなるかは、あとで書きます)。
やがてやって来た津波
自分が見たことのある津波というと、大抵は海面が少し上がるくらいの津波でした。北海道で津波というと奥尻を襲った津波がありますが、夜だった上に自分はちょうどそのときに寝ていたのでまったくといっていいほど記憶が無かったんです。ましてや自分は内陸地の育ちで、海の怖さを思い知ることは皆無でした。
津波の恐ろしさを、これっぽっちも知らなかったんです。
函館や釧路を襲う津波の中継映像も、やはり自分を震撼させるに十分でした。
海面が港を乗り越え、船やコンテナや、港に置かれていた細々としたものを押し流してゆく光景。
海水が川を遡り、川岸にあるものを飲み込んでゆく光景。
また八戸港かどこかの中継には、本当に目を疑いました。
信じられないほどの水位の中、割と大きな船が陸側に流され、ライトが付いたままの車が為す術なく立ち往生している。

 

見ていることしかできない。

 

今思うと、この無力感が、喉元を過ぎた恐怖を別のモノとして引っ張り出す呼び水だったのかも知れません。また、ツイッター上で少しでも役に立ちそうな情報を広げる手助けを…と思ったきっかけだったのかも知れません。

とりあえずツイッター上でどのように振る舞ったかと、「喉元を過ぎたあとの恐怖」については、また後日。